歴史を知らぬものに新しい文化を生み出す価値なし
その1
年をとればとるほど、若い人をたたきたくなります。
気をつけましょう。
その2
何かに詳しくなればなるほど、その分野での新しい動きやアイデアに否定的になります。
気をつけましょう。
その3
何かを得れば得るほど、それを得たのは自分の実力だと思い込みたくなります。
気をつけましょう。
その4
持つものが多くなればなるほど、人は動けなくなってしまいます。
気をつけましょう。
その5
うまくいかないことが続けば続くほど、明日もきっと暗いに違いない、と思いたくなります。
気をつけましょう。
「自己中心的な人は称賛を求めるが、自尊心の高い人は称賛を求めない。自分の価値を信じているから、他人からの称賛など必要としないのである。」
古くなったから壊すと言うなら、
君達の頭こそ打ち砕け!
古いものを壊すことは
過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか?
人が生きて死んでいった記憶を
ないがしろにするということじゃないのか?
新しいものばかりに飛びついて
歴史を顧みない君達に未来などあるか!
少数者の意見を聞こうとしない君達に
民主主義を語る資格はない!!
映画『コクリコ坂から』
この世の中は自分の願望をだれかが叶えてくれるほど、甘くはできていないのです。 自分で汗をかき、恥をかきながら努力しなければなにひとつとして願いは叶えられないのです。 小さいときから自分はなにもしなくても、親が代わってなんでもしてくれていたから、大人になっても自分のことはだれかが面倒を看てくれるものと思い込んでいるのではないでしょうか。
自分の望みは自分で叶えるしかないのです。 だれも自分の望みを叶えてくれはしないのです。 たとえだれかが自分の望みを叶えてくれたとしても、そんなものは生きる希望を与えてくれることはないでしょう。 一時的に欲望を満足させることはあっても、生きる希望を与えてくれはしないのです。 生きる希望はひとりひとりが各人各様の方法で、探していくしかないのです。 できあいの生き甲斐や、他人から与えられる生き甲斐は絶対に長続きしないと断言します。
目標が定まったら、あとは自分との闘いしかないのです。 現実から逃げることは、ごまかしの人生を生きることです。 自分と闘おうとしない人は、自分のたった一度しかない人生をうそで覆い隠して生きようとしているのです。 嘘をついてしまうと、嘘を隠すためにまた嘘をつかなければならなくなることは、だれでも経験していることではないでしょうか。 そんなとき心の底から楽しむことはできましたか。 普通は「いつ嘘がばれるだろう」と気になって、なにをしていても心の底から楽しむことはできなかったのではありませんか。
いくら知識があっても、その人の心が耕されていないのなら、それは教養とは言えず、豆知識が多いというだけ。
よくオタクの方々が、自分たちのオタク知識を自慢なさったりするようですが、人に対して自慢するようなものは、逆に言うと、教養にはなっていないと言える。
たとえ、マンガとかアニメからであろうと、その作品を通じて、受け手の心が耕されたのなら、それは教養に繋がったと言えるでしょ?
まあ、作り手としては、まさに、受け手が喜ぶ要素を上手に組み合わせてまとめあげれば、受け手も確実に喜ぶ事が見えてしまうので、どうしてもそんな方法に走ってしまう人もいたりする。
そして、そんなパッチワーク作品でも大喜びする受け手が実際に多いのも事実。
しかし、当然のことですが、そんなコピー&ペーストのパッチワーク作品で、受け手の心が耕されたわけではないでしょう。商品性の点ではすばらしいと言えるでしょうが、作品性はないと言えるでしょ?
芸術などの表現分野での作品を受容する問題に限らず、知識と教養を明確に区別することで見えてくるものも多いわけです。たとえば、インターネット掲示板に入れ込んでいる人は、自分たちを「情報強者」と自称していたりしますよね?
確かに、その手の人たちは「知識が豊富」でしょう。
しかし、教養からは程遠い存在でしょ?
それは、インターネット掲示板がいささかアングラな要素を持ち、高尚な領域から外れているということではなく、その情報で自分の心を耕していないからでしょ?
人に対して自分を情報強者などと自慢するのではなく、耕された心に種を植え、そこから成果を得るために、思考し行動することが、心を耕すことですよ。得体の知れない相手に対して、自慢をしなくてもいい状態こそが、心が耕された状態と言うこと。
情報強者は、断じて「知の巨人」ではない。
情報強者と言うものは、まさに、知識志向であって、「知の巨人」は教養を向いている。
情報強者なんて、人のやっていることを覗いているだけの「出歯亀の達人」にすぎないものでしょ?
だから、そんな情報強者さんは、インターネットの掲示板とか相談サイトのようなところでしか活動できない。現実的でシリアスで個別的な事案に対しては、何 の回答も持ち合わせていない。だって、既製品的な回答が通用しない世界でしか使えない情報しか持っていないわけですからね。
知識が豊富でありながら、それが心を耕すようなレヴェルになっていないその手の人は、議論のための議論が大好き。
最前線の後方において、「べき論」を持ち出し、政治論議や芸術論議を戦わせることになる。
しかし、心を耕したのなら、つまり本当の教養になっているのなら、耕した上での成果を作ろうとするでしょ?芸術論議を100回するよりも、自分で作品を作るのが自然なのでは?
政治論議を100回するよりも、自分で政策を立案して、提案していったら?
しかし、知識はあっても、教養はないダメダメ人間は、政治において、具体的な政策を打ち出せないし、あるいは、芸術分野においても作品を作れない。
結局は、知識どまりであって、自分の問題まで目が行っていないし、逆に言うと、自分の問題意識にフィットした知識を得ていないわけです。
問題意識がない人は、文章に接する際にも「読みやすい文章」を求めても、「分かりやすい文章」「内容が的確に記述されている文章」は求めない。「読みやすい」と「分かりやすい」の間の乖離に、問題意識の不在が見えてくることになる。
だって、問題意識があれば、それが解決することが重要なのであって、だから、その解決に役に立つ文章であることが重要でしょ?だからこそ、「内容が理解で きる」ことが必要になりますよ。たとえ「読みやすくても」内容そのものがない文章だったら、その人の問題意識としては何も役に立っていないわけでしょ?
抑圧的なダメダメ人間は、問題意識がないがゆえに「斜め読みしやすい」文章を求め、「内容が的確に記述されている」文章には関心を持つことはない。そんな日々が積み重なっていくと、知識自慢の情報強者さんにもなりますよ。
「分かってもらうために」色々と、まさに手を変え品を変えて表現しても、それを知識自慢ととらえてしまうパターンもある・・・それについては、結構頻発するパターンなんですよ。
だって、そもそも問題意識や伝達の意欲というものも理解できないわけですから、その解決のための方法としての情報なり知見なり見解とも、本質的に無縁になってしまう。だから、単なる知識自慢を思ってしまうんでしょうね。
教養と知識の差、それに相応する、「分かること」と、「知ること」の差、その違いからダメダメの問題もよく見えてくることになる。
問題意識があるからこその教養であり、分かることになるわけです。
ありきたりで、類型的で・・・つまり、ダメダメにお約束と言える「ふつう」に安住するのには、知識は役に立つ。
「正しい知識を学びましょう。」と言っている時点で、ダメダメに安住したまま。
心を耕していないがゆえに、情報や知識を消費するだけで自分では何も生み出せない。
だからこそ、自分が消化できるようなムダ知識を求めて覗き見に明け暮れる。
だからこそ、自分自身が一つの作品として成立することはない。
一般の人が、「知識」と「教養」の違いを厳密に使い分けているとは言えないでしょう。それに、その必要も現実的にはないでしょう。
だから、重要なことは、心を耕すという文化の源流にまで目を向けること。
その目的に沿ったものであれば、マンガだろうがアニメだろうが、教養となるわけで、その目的を忘れてしまったら、たとえ高尚なジャンルであっても、心への覆いになってしまうだけ。
ムダ知識で覆われた大地に、いくら水を撒いても、その水も流れてしまうだけで、何も育ちませんよ。
しかし、そんなムダ知識自慢の人は、ダメダメ家庭の周辺には実に多いでしょ?
そして、そんな状態の人は、大昔からいたりするもの。
2000年前の人がこのようなたとえ話をしています。
「種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし、
日が昇ると、焼けて、根がないために、枯れてしまった。」
まあ、例え方が、この私とそっくりなのは笑ってしまうくらい。
知識なり言葉は、まさに、自分の心に根を下ろすことに意味があるもの。
しかし、多くの人は、言葉は聞いても、中身は分かろうとはしない。
挙げ句の果てに、「ヘンなことを言って、オレたちを不安にさせるヤツ!」などと言いだし、その言葉や、そんな言葉を語る人を弾劾する始末。
知識というものは時代に連れ、場所に連れ、変わったりしますが、自分の心を耕すことにつながる教養については、どんな時代も変わらない。
それこそ、ギリシャ以来より言われている「汝自身を知れ!」という言葉を知っていても、分かっていない人が多いもの。
必要もないムダ知識を集め、悦に浸っている人は、まさに、自分自身について何も知らない人でしょ?
(Source: space.geocities.jp)
7 months ago
自分から進んで笑顔で挨拶すると、相手の人から笑顔が返って来るということは、よくあることです。
相手の人を心から思いやる優しい気持ちに、自然に相手の人も共鳴して、きっと優しい笑顔が返って来ます。
自分が不機嫌な時、やや怒ったような冷たい態度をとると、相手の人も戸惑い、不機嫌そうな冷たい反応が返って来ます。
「人は鏡」と言われる所以です。
これは、あなたの心がストレートに、相手の人の心に反射するからなのかも知れません。
自分では気づいていなくても、あなたの気持ちやそこから発する行動は、巡り巡って、直接あなたや、あなたの周辺の人々に反射し共鳴します。
あなたが笑えば、鏡も笑います。
あなたが怒れば、鏡も怒ります。
鏡は絶対に先に笑うことはありません。
だから、積極的にあなたから優しい気持ちで、積極的に笑いかけましょう。
あなたが笑いかければ、きっと優しい、気持ちのいい笑顔が返って来るはずですよ。
「人は鏡」ですから..。

